どちらが苦しいのか [人生]

 「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは、目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは、不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えさかることもあると同時に、また存外楽々と食いうることもあるのである。のみならず楽々と食いえた後さえ、腸カタルの起ることもあると同時に、また存外楽々と消化しうることもあるのである。こういう無法則の世界に順応するのは、何びとにも容易にできるものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしはかならずとっさの間に餓鬼道の飯も掠めうるであろう。いわんや針の山や血の池などは、二、三年そこに住み慣れさえすれば格段跋渉の苦しみを感じないようになってしまうはずである」(芥川龍之介「侏儒の言葉」より)

 「生きている時には、いくら苦しいとか毎日思っていても、ご飯を食べたり、テレビを見たりしている時くらいは、ほんのちょっとでも苦しみや悲しみの気持ちは忘れているものです。朝から晩まで一日中、一秒の休みもなく苦しみ悲しみ続けているということはまずありません。どんなにもの凄い苦しみでも、我々の日常生活の中では、忘れられる時間というのが少しでもあるのです。しかし、自殺した場合は違うのです。先ほどから述べているように、それこそ一分一秒の暇なく(苦しみが)未来永劫続くのです」(美輪明宏「霊ナァンテコワクナイヨー」より)


 引用した2人の見解はどちらかというと正反対だ。人生の苦しみと、地獄の苦しみとどちらが辛いか。芥川は自殺のことを書いているわけではないが、本人は自ら命を絶ってしまった。
 死んだ後のことは誰にもわからない。というか、統一的な見解が存在しない。人によって、宗教・宗派によって考え方がばらばらである。死んだら無に帰するという考え方の人もかなり多い。釈迦は、死後の魂の存在については「答えない」という態度をとった。うまく逃げたな…という気もするけど、明快な答えなど存在しえないような気がするので、この釈迦の態度が穏当なのかもしれない。

 「宇宙の果てはどうなっているか?」という疑問があるが、「宇宙には果てがある」という前提で疑問が呈されている。あらゆる「問い」には、少なからずこのような決め付けが含まれているのではないだろうか。「地球の果ては滝になっている」と考えられていた時代があった。しかし、実際は地球に果てなどなかった。最果ての町とかはあるけど。旅に出たい。
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