頭の悪さについて、無い頭で考える [人生]

「オレ、頭が悪いから…」という物言いを、頭のよい人は不愉快に思うそうだ。
それは、頭の悪い人に対する苛立ちも勿論あるだろうけれど、
本当に頭が悪いクセに、謙遜によって頭の悪くなさをアピールしようという浅ましさを
不愉快に思うのだろう。
あと、頭の悪さを露呈しちゃったときの担保みたいな態度が苛立たしいというのもあるかもしれない。
このブログ記事のタイトルも不愉快だろうな。

自分自身のことを考えると、中学校くらいまでは成績が良かった。
特に勉強はしなくてもテストではいい点が取れたので、それなりに頭がいいと思っていた。
しかし、放課後や休日に遊んでいるときなどに、友達の物理的追究心に触れることがあり、
世界のすべての事象が自明だと思い込んでいる自分にとって、それはなんとなく脅威であった。

たとえば、友達が「なんで海って青いんだろう」という疑問をふと口にすると、
こちらは海が青い理由なんてどうでもいいし、最初っから青いんだと思ってしまう。
「でも、水は青くないじゃん」と友達が言うと、「そうだっけ、たしかにね」と興味がない。
「近くでみたら透明だけど、遠くから俯瞰したら青いんじゃない?」くらいの感じ。
けれど、そんなことに興味を抱く友達に、そこはかとないコワさのようなものを抱いたものだ。

現代の科学技術などは、こうした原初的疑問からすべて始まっているんだ。
その疑問にじっくりと取り組み、答えを出そうとする態度が今日の高度な科学を支えている。
それに対し、自分のような考えの人間は何も生み出さず、彼らが作った物を利用するだけだ。

あれ? なにが書きたいんだっけか?
頭の悪さについて書くんだったよね。
頭の悪い人は文章を書くときに、おおまかなビジョンを立てずに、行き当たりバッタリで始めちゃうんだ。
そして途中で行き詰って破綻する。

頭の良さっていろいろなタイプがあるけど、頭の悪さは種類が少ないような気がする。
「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ」
と、トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で書いている。
ここでは頭の悪さと幸福、頭の良さと不幸が符合する。
おめでたい人って悩まないし、壁にぶつからないから思考能力が育たないよね。
不幸な人は、己の不幸の源泉を辿ろうとしたり、不条理について考えたりするから脳が鍛えられる。

…なんだか、劣化版・岸田秀って感じの論理だな。
「屈辱が空間概念を生み、悔恨が時間概念を生んだ」的なアレ。
身体が空間を知覚させ、記憶力が時間を意識させた、ではダメなのだろうか?
物心ついたとき、未来感覚ってあっただろうか。
そりゃあるだろう。
不安はあっただろうか。
幼児のころは不安がすべてだったような気もする。
過去も未来もないのに不安がある。
不安の先に対象はあっただろうか。
窓から射し込む陽光の眩さの中でゆらゆら何かが揺れている。
その揺れじたいが不安の表象のような…


















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webの海で拾ったコトバ その1 [人生]

このあいだ、「ジブリ映画『耳をすませば』を観て鬱になる人が続出」みたいなニュースを取り上げましたが、どんな状況なのか2chを覗いてみたところ、「俺にはあんな青春はなかった」という書き込みばかり。あんな青春、ふつうは無いって。
その嘆きの海のなかで、光り輝くようなコトバを見つけました。


「今より若いときは二度とないんだから  夢をみるなら今がんばれ
 がんばらないなら 夢をみるのはやめたほうがいい」


誰のコトバかは、わからない。
書き込んだ人のオリジナルかもしれないが、キュンとくるものがある。
1日の終わりに、リヴァーブたっぷりの中で優香に読み上げてほしい。

ちなみに私は夢などなにも抱いていない。
かつては持っていたのかもしれない。

現在の自分は、自分史という年表のいちばん先っぽにいるイメージ、
歴史の中でもっとも老けきった状態が、今の自分だという認識で生きてきたが、
このコトバは、実は年表のいちばん後ろにいるんだと教えてくれるのだ。

いまこの瞬間がいちばん若いんだと。



タグ:優香 名言 2ch
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どちらが苦しいのか [人生]

 「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは、目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは、不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えさかることもあると同時に、また存外楽々と食いうることもあるのである。のみならず楽々と食いえた後さえ、腸カタルの起ることもあると同時に、また存外楽々と消化しうることもあるのである。こういう無法則の世界に順応するのは、何びとにも容易にできるものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしはかならずとっさの間に餓鬼道の飯も掠めうるであろう。いわんや針の山や血の池などは、二、三年そこに住み慣れさえすれば格段跋渉の苦しみを感じないようになってしまうはずである」(芥川龍之介「侏儒の言葉」より)

 「生きている時には、いくら苦しいとか毎日思っていても、ご飯を食べたり、テレビを見たりしている時くらいは、ほんのちょっとでも苦しみや悲しみの気持ちは忘れているものです。朝から晩まで一日中、一秒の休みもなく苦しみ悲しみ続けているということはまずありません。どんなにもの凄い苦しみでも、我々の日常生活の中では、忘れられる時間というのが少しでもあるのです。しかし、自殺した場合は違うのです。先ほどから述べているように、それこそ一分一秒の暇なく(苦しみが)未来永劫続くのです」(美輪明宏「霊ナァンテコワクナイヨー」より)


 引用した2人の見解はどちらかというと正反対だ。人生の苦しみと、地獄の苦しみとどちらが辛いか。芥川は自殺のことを書いているわけではないが、本人は自ら命を絶ってしまった。
 死んだ後のことは誰にもわからない。というか、統一的な見解が存在しない。人によって、宗教・宗派によって考え方がばらばらである。死んだら無に帰するという考え方の人もかなり多い。釈迦は、死後の魂の存在については「答えない」という態度をとった。うまく逃げたな…という気もするけど、明快な答えなど存在しえないような気がするので、この釈迦の態度が穏当なのかもしれない。

 「宇宙の果てはどうなっているか?」という疑問があるが、「宇宙には果てがある」という前提で疑問が呈されている。あらゆる「問い」には、少なからずこのような決め付けが含まれているのではないだろうか。「地球の果ては滝になっている」と考えられていた時代があった。しかし、実際は地球に果てなどなかった。最果ての町とかはあるけど。旅に出たい。
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