文學ザッパ 其の壱 [文章]

いろんな作家の文章の一部を抜粋してみる。
書棚から適当にピックした本を適当に開き、眼に留まった1センテンスを抽出する。
手始めに5作家で。
はたしてそこに、個性は宿っているだろか。


■そういうときはだいたいいつも夜明け前に起きて、午前中詰めて仕事をし、午後はのんびり運動をしたり、音楽を聴いたり、本を読んだりする。□
   村上春樹『意味がなければスイングはない』

■節子は本箱の前に座布団を敷いて、私を坐らせると、自分はその片隅の小さな坐り机の前に坐り、こちらに横顔をみせたまま、すぐにはこちらを見なかった。□
   柴田翔『されど われらが日々――』

■「エンコウでオヤジから十万円取ってやった」と、大人に勝ったつもりの女子高生が、実は、大人の世界ではたった十万円で解決できることなんか幾つもないと思い知らされてるオヤジに、たった十万円で愚弄されてる事実。□
   町山広美『イヤモスキー』

■大事なものが奪われると聞いて、一時は高村がオニ連中に襲われ、あの“絞り”でちゅうちゅう身体を吸われる、なんていうグロテスクなシーンも思い浮かべていた俺だが、考えてみるとこれも当然の結末だった。□
   万城目学『鴨川ホルモー』

■生きることが美であるということは、わかりやすく言えば、たとえば鳥が鳥として、花が花として生きよう、成長しようとしているときには、美しさを表す、ということである。□
   平山郁夫『絵と心』


【こうひょう】しっかり宿ってた。こせいが。
しかし、よりによっていきなり春樹かい。相変わらずサイボーグみたいな逡巡のない生活してやがるな。同じ人類とは思えません。
柴田氏のは時代を感じさせますね。節子とか坐り机とか。つましく生真面目で、しっとり冷んやりした空気感。
町山女史はエンコウの話。この文は巧い。けど、エンコウって10万円もするの? アホらしー。
万城目サン、なにが当然の結末なんだかわかんねー。けど、たしか全編こんな文体だった記憶アリ。
平山先生、まさに先生による先生そのものの文章。でも、どうやら目ぼしいことはなにも言っていないようだ。

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