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つぶやき方がわからないので… [web]

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 twitterがここにきて一段と脚光を浴びているようだ。オバマ大統領もやっているとかナントカで、一昨年あたりから話題になってはいたみたいだが、ここ数日はテレビやラジオで特集が組まれたり、新聞や雑誌などでもtwitterの記事がやけに目立つ。
 私はと言えば、昨年の中ごろにtwitterを始めたものの、何回かつぶやいた後に、よくわからないままやめてしまった。無言なう。よくわからないといえば、この「ブログ」というものも未だに仕組みがよくわからず、勝手がわからないまま駄文を書き散らしている。申し訳ない。
 そもそも私には文章力がないので、140文字しか書けないtwitterの方が向いているのかもしれない。ただ、ブログ以上に仕組みがよくわからないので、当分はこのブログ上でどうでもいいことをさえずり続けることにする。
 おっと、優香のラジオが始まってしまう!
タグ:Twitter
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どちらが苦しいのか [人生]

 「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは、目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは、不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えさかることもあると同時に、また存外楽々と食いうることもあるのである。のみならず楽々と食いえた後さえ、腸カタルの起ることもあると同時に、また存外楽々と消化しうることもあるのである。こういう無法則の世界に順応するのは、何びとにも容易にできるものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしはかならずとっさの間に餓鬼道の飯も掠めうるであろう。いわんや針の山や血の池などは、二、三年そこに住み慣れさえすれば格段跋渉の苦しみを感じないようになってしまうはずである」(芥川龍之介「侏儒の言葉」より)

 「生きている時には、いくら苦しいとか毎日思っていても、ご飯を食べたり、テレビを見たりしている時くらいは、ほんのちょっとでも苦しみや悲しみの気持ちは忘れているものです。朝から晩まで一日中、一秒の休みもなく苦しみ悲しみ続けているということはまずありません。どんなにもの凄い苦しみでも、我々の日常生活の中では、忘れられる時間というのが少しでもあるのです。しかし、自殺した場合は違うのです。先ほどから述べているように、それこそ一分一秒の暇なく(苦しみが)未来永劫続くのです」(美輪明宏「霊ナァンテコワクナイヨー」より)


 引用した2人の見解はどちらかというと正反対だ。人生の苦しみと、地獄の苦しみとどちらが辛いか。芥川は自殺のことを書いているわけではないが、本人は自ら命を絶ってしまった。
 死んだ後のことは誰にもわからない。というか、統一的な見解が存在しない。人によって、宗教・宗派によって考え方がばらばらである。死んだら無に帰するという考え方の人もかなり多い。釈迦は、死後の魂の存在については「答えない」という態度をとった。うまく逃げたな…という気もするけど、明快な答えなど存在しえないような気がするので、この釈迦の態度が穏当なのかもしれない。

 「宇宙の果てはどうなっているか?」という疑問があるが、「宇宙には果てがある」という前提で疑問が呈されている。あらゆる「問い」には、少なからずこのような決め付けが含まれているのではないだろうか。「地球の果ては滝になっている」と考えられていた時代があった。しかし、実際は地球に果てなどなかった。最果ての町とかはあるけど。旅に出たい。
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藤子・F・不二雄自身、ジャイ子の本名を最後まで明かすことはなかった。 [漫画]

※タイトルは、Wikipediaから引用


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 知らなかった。
 「ジャイ子」というのは本名だとばかり思っていた。まさか、あだ名だったとは。

 私は以下のように想像していた。
 兄の剛田武(ごうだたけし)は幼いころから「ジャイアン」と呼ばれていた。武の両親はそれを微笑ましく誇らしく思っていた。妹が誕生したときに、剛田家では「タケシはああやって呼ばれているし、この子はいっそジャイ子でいいんじゃないかい?」「そうだな。なかなかどうして可愛い名前だと思うぞ」…みたいなやりとりがあった、と。

 Wikiによると、本名を明かさなかったのは、「ジャイ子の本名を出すと同じ名前の女の子が学校でいじめられるかもしれないと配慮したため」だという。私の記憶が確かならば、ドラえもんはのび太がジャイ子と結婚するのを阻止するために22世紀からやって来たはずだヤア!ヤア!ヤア!

 聞いたところによると、最近ではジャイ子の扱い方が変わってきているらしい。これもいじめ問題に配慮してのことだろう。とにかくテレビで確認しなければならない。
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私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。 [詩]

「さびしいとき」 金子みすゞ

私がさびしいときに、よその人は知らないの。

私がさびしいときに、お友達は笑うの。

私がさびしいときに、お母さんは優しいの。

私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。


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 この童謡詩人の最期を考えたとき、どうにもやりきれない気持ちになる。
 坂口安吾は「文学のふるさと」というエッセイの中で、「むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります」と書いている。トートロジーめいた物言いだが、謂わんとするところはよく解る。真実だと思う。でも、やりきれないことには変わりはない。神も仏もないではないか。「左様、ないのである」と安吾は言うだろう。そうすると、解脱など、夢のない夢物語のように思えてしまう。
タグ:金子みすゞ
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不可思議な力は冷かな声で笑います。自分で能く知っている癖にと云います。 [小説]

※タイトルは、夏目漱石「こころ」から抜粋。

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 近代日本の小説で最も読まれているうちのひとつが、この夏目漱石の「こころ」だろう。もはやストーリーを書く必要もないほどの人気作だが、私が読んだのは遠い昔なので、ディテールはたいがい忘れてしまった。ほとんど大まかな流れしか憶えていない。
 小説に正しい読み方などなくて、読者の恣意に委ねられるべきだとは思うけれど、その一方で、やっぱり書き手の意図みたいなものを汲み取ろうとしたほうがいいような気もする。この小説に関していうと、研究書などで語られるときには「殉死」のことが必ず取り上げられているようだ。避けては通れないテーマなのだろう。
 ただ、私は「こころ」における殉死はさほど重要なテーマじゃないのではないかと思う。「先生」自身、殉死という言葉をほとんど忘れていたと言っているし、自死するのにうってつけの理由が舞い込んできたというような語り口なのだ。愛する「妻」ではなく、自分自身を納得させるのにsuitableな概念が見つかったということだ。著者の漱石も、先生の告白を終わらせて小説を締めくくるためには、何かしら託けるべき大ネタが必要だと考えたのだろう。わかんないけどね。少なくとも、殉死という概念を導入したことで、物語は一気に重層的な構造を持つに至った。ある意味、ややこしくなった。

 ではこの小説にとって何が重要なテーマかというと、それもよくわからない。まあ題名どおり、この先生という人物の心の動きそのもの(心という怪物?)がテーマなのでしょう。最後のほうで先生はこう書いている。「私は私の過去を善悪ともに他の参考に供する積りです」。
 私はこの本のディテールは忘れてしまったと最初に書いたが、強烈に記憶に残っている一節がある。自宅に「こころ」の文庫版があったので、その箇所を探してみた。長いけど引用する。

 「死んだ積りで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。然し私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるように云って聞かせます。すると私はその一言で直ぐぐたりと萎れてしまいます。しばらくして又立ち上がろうとすると、又締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな声で笑います。自分で能く知っている癖にと云います。私は又ぐたりとなります。」

 久しぶりに読んでみたけど、このくだりは本当に印象的だ。「なんでわかるの?」と漱石に聞きたいくらいリアルだ。「K」に対する罪悪感の表れと言ってしまえばそれまでだが、私にはそれにとどまらぬ、得体の知れない宿命的(?)な作用を想像させる。超自我の働きということでは片付けられないようなデモーニッシュな力が書き込まれている。「~ます」を多用していることも、先生の強迫的な心理を反映しているように思える。
 あまり関係ないかもしれないが、山川方夫の「夏の葬列」という短編を読んだときに、私は「こころ」のこの一節を思い出した。
 なんだかとりとめのない文章になってしまったが、今後はもっと破綻した、そして、もっと短い文章を書いていこうと思います。
タグ:漱石 こころ
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このクソったれな曲はこうしてやればいいんだ! [音楽]

※タイトルは、ジェフ・エメリック(&ハワード・マッセイ)著「ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実」から抜粋。


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 発泡酒が登場したあたりまでは何とかついて行けたが、今はもう混沌としていてよくわからない。
 第三のビール、第四のビール、新ジャンル商品…。田村正和がCMで「僕には、ビールです。」と言ってみたり。スーパーのアルコール飲料のコーナーに行っても種類があまりに多くて、どれがビールなのか発泡酒なのかそれ以外なのか、判別がつかない。
 酒税法の改正でビールが増税されると、メーカー各社は一生懸命新しい商品を開発するのだが、新商品が売れると政府はまた税金をかける。Taxmanはとことん容赦ない。

 最近、アサヒビールの新ジャンル商品のCMでビートルズの「Ob-La-Di, Ob-La-Da 」のカバーが流れている。ビートルズの楽曲の中でも屈指の能天気ソングであり、小学校の教科書に載るほどの有名曲だ。CMも、さわやか俳優・佐藤隆太のイメージと相俟って、清々しい雰囲気を醸している。
 しかしこの「Ob-La-Di, Ob-La-Da 」という曲をレコーディングしていた1968年夏、ビートルズは険悪そのもので、メンバー間には不穏なムードが漂っていた。スタジオでポール・マッカートニーがOb-La-Di, Ob-La-Daを歌いだすと、ジョン・レノンが「ババァ向けのクソ曲」と文句を言う。
 この曲のレコーディングをさんざん重ねた後、ポールが「この曲を1からやり直したい」と言い出し、ジョンは怒り狂ってオノ・ヨーコと共にスタジオを出て行く。「今日はもう録音は無理かな…」とみんな諦めていたら、数時間後にハイになったジョンがスタジオに戻ってきて、ピアノの前に向かい、
「このクソったれな曲はこうしてやればいいんだ!」と言って、力まかせに鍵盤を叩く。この時のフレーズがあの印象的なOb-La-Di, Ob-La-Da のピアノイントロの原型である。クソったれと貶しながらも、楽曲を良くしようという思いはあったのだろう。
 このジェフ・エメリック(エンジニア)の本に出てくるジョン・レノンは気まぐれで短気でエキセントリックな人間として描かれている。一方のポール・マッカートニーは常識のあるオトナという像だ。エメリックはポールと親しかっただけに、筆致にバイアスが掛かるのは致し方なかろう。
 それにしても、40年も前のことをこれだけ仔細に記憶しているなんてすごい。ある程度の脚色・捏造記憶はあろうけれど、スタジオ内のやり取りや空気がリアリティをもって迫ってくるのは、やはり現場に居合わせた人間が書いたものだからだろう。

 老年の人と会話をしていていつも思うのは、本当に昔のことをよく覚えているなぁということ。私が老年になったとき、若い人に語るような思い出話はあまりない。断片的な記憶のかけらは無数にあるのだが、物語性をもったエピソードは悲しいことにほとんど持っていない。私には20世紀の日本を伝える語り部になる資格はない。話しベタというのもあるけど。
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「プラトー現象」をもっと早く知っていれば… [現象]

 カクテルパーティ現象、マスキング効果、ストックホルム症候群、リマ症候群…
心理学や精神医学の領域にはいろいろな現象やシンドロームがあって、興味深い。
その中で、プラトー現象 (plateau phenomenon)というのが面白いと思った。

 たとえばピアノを習い始めた生徒。最初のうちは練習しただけどんどん上達する。楽しいからさらに練習する。しかし、ある段階に達するとスランプのような状態に陥り、いくら頑張ってもその効果が表れない。この停滞期のことを、「平原(Plateau)」に譬えてプラトー現象と呼んでいるのだそうだ。

 プラトー現象が続くと、たいていの人はウンザリして練習をやめてしまうが、ここでめげずに頑張り続けると、平原状態を脱してさらなる飛躍が期待できるのだという。
 プラトーは「眼に見えないバケツにコップで水を注いでいるような状態」であって、頑張っている本人には徒労感しかない。でも、眼に見えないバケツは徐々に水位を増し、ついに満タンになってドバッと水が溢れる。そこでようやく努力が報われるのである。

 自分の人生をふり返ると、勉強やスポーツ、筋トレ、楽器、ダイエットなど、すべて途中で挫折している。どれもプラトー状態に耐え切れなくなって「あきまへん!」と投げ出したのだろう、今思うと。
 私だけでなく、多くの人がそうなのではないだろうか。世の中に自称・器用貧乏が多いのはそのためだったりして。雌伏期を脱した後の〈雄飛〉を味わったことのある人は、その経験からあらゆることに努力ができるのだろう。器用貧乏も多いが、何をやっても一流という人もたくさんいるのだ。
 せめて器用貧乏になりたかったよ。
タグ:プラトー
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つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。 [小説]

タイトルは、太宰治「人間失格」の第一の手記から抜粋。

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 電車の駅にあるブリッジを、遊戯的な気の利いたサービスだと主人公(太宰?)は長らく思っていたが、のちにそれは単に旅客が線路をまたぎ越えるための実利的な階段に過ぎないということを知るに及び、興醒めしてしまう。

 こういうのは、ぼんやりと生きてきた人間なら誰でも経験することだ。
 たとえば学生のとき。ぼんやり歩いていて車に轢かれそうになり、窓から顔を出した運転手にものすごい剣幕で「気をつけろッ!」と怒鳴られる。「ああ、見も知らない私なんかの命をこんなに心配してくれるなんて」と、ぶっきらぼうな優しさに感動してしまう。そして数年後、自分が運転免許証を取ってハンドルを握ったとき、「あっ、アレはそういうことだったのね…」と遅ればせに気付く。

 トマソンの「純粋階段」などと違い、太宰治は電車駅のブリッジに遊戯的なサービスを見出していた。都市を設計する場合やデパートを設計するときなどには、こうした遊戯的な要素を盛り込むこともあると思う。ヴェネチアが人気観光地であるのにはさまざまな要素があるが、あの迷路状の路地(カッレ)も観光客を惹きつける理由のひとつだろう。

 人間の営みがわからないということを書いたものでは、穂村弘の「世界音痴」(小学館文庫)という本がある。いみじくも文庫解説者が「平成の太宰治」と書いていたが、私もこの本を読み進めていて同じような印象を持った。

 穂村さんは書く。「例えばお店で会計をするときに私は必ずお札を渡してしまう。金額に合わせて小銭を揃えるという、その時間に耐えられないのである。(…中略…) 店員を待たせている時間そのものが熱湯のような痛みを伴って感じられるのだ」

 テレビ朝日系の人気バラエティ「アメトーーク」で〔人見知り芸人〕の回があったが、そこに登場した芸人たちのエピソードはいずれも穂村的な話ばかりだった。

 世界にフィットできないと感じている人間は案外多そうだ。世界への違和感が「自分は(良くも悪くも)特別だ」という自意識過剰を育み、自意識に集中するあまり外的世界への関心が疎かになる。そうなると、ますます世界をオートマティックに渡り歩くことが困難になる。
 しかしそんな人間でも、ある局面では驚くほどナチュラルに行動しているものだが、そういう自分には気付こうとしないのだ。
タグ:太宰 穂村
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